平成1691

平和党結党宣言

 

  われわれは資本主義経済に代わる自然主義経済を旗印に本日ここに平和党を結党する。

地球人類は、今日驚異的な異常現象の中をかろうじて生きている。それはあたかも火炎の上を綱渡りしている悲しい道化師のようである。

南極の氷が溶解し、地球上に住む全ての生物が一瞬にして、海の藻屑と化す可能性が高まってきている。酸性雨が人間とその食料資源、水、土壌、大気、ありとあらゆる物質を酸化させ、オゾン層破壊による紫外線直射が人間を死に導きつつある。

人間は自然によって経済が存在している事実を忘れ、政治の世界では経済や福祉の仕組みについての議論に終始している。

経済の奴隷と化した国際社会。地球はそれを横目にしながら、人間を生かしてはおかない環境にしつつある。地球人類は自らの手によって寿命を刻一刻と短縮させている。

経済が自然に力を加えた分だけ、自然が今、経済に力を加えようとしている。更に人間は貨幣によって生きているという、大きな認識の過ちを犯し、人間の摂取する食糧、環境を破壊している。発展途上国の先進国化は貨幣経済を推し進め、それによって今世紀中に必ず食糧危機が訪れると言われている。

特にわが国は食糧自給が確保されていないにも関わらず、過度の貨幣経済の依存による飽食は、ひとたび世界恐慌が起きれば、ただちに飢餓に苦しめられるであろうことが、容易に予測される。

資本主義の限界はすぐそこまで迫ってきており、わずかに歯車が狂っただけで、いつ経済恐慌が起こっても決して不思議ではなく、悲しいかな、いとも簡単に日本国は滅びてしまうのである。

自分が生きているうちは、資本主義の限界がきてもなんとかなるだろうと、高を括っているが、既にどうにもならない社会現象が多発している。江戸幕府の末期では三代改革と呼ばれたものを断行したが、結局幕府は滅んでしまった。現代日本でも、政治改革、行政改革、構造改革などを行っているものの、これこそが限界の証である。

経済競争こそ発展と考えてきた、今までの価値観を転換しなければ、地球人類に明日はない。

経済競争は言い換えれば資源の奪い合いであり、国家の存在が戦争をも生み出している。ほとんど全ての国家が、他国民、多民族の生命などよりも自国の富のほうが重要であると考えている。すでにわが国にもその火の粉が降りかかろうとしている。こうした中であっても、永田町や霞ヶ関では、その対策が見出せずに誰もが立ち尽くしているだけである。

経済優先社会には、戦争という殺し合いと、企業の競争が経済の奴隷と化した国民性を生み出している。子どもたちはそれを見て育ち、人を殺す事に何の疑問も持たない人間が誕生する。

利子によって膨れ上がる債務、絶えず成長しようとする資本主義経済は、人々を苦しめ、貧困に喘ぐものと欲望の塊である資本主義の豚を生み出した。

官僚などという必要のない輩が、国民から税を巻き上げ、不必要な仕事を生み出し、官僚機構はさらに膨張しようとし、「大きな政府」となって国民の利益とは無縁の利権構造を拡大させる。この反省にたって政府の規制を外し、官から民への移行により「小さな政府」を作るのはいいが、このままでは己の利益を貪ることを煽るだけである。金を稼ぐことが正義ならば、他人の生命など知ったことではない。このような論理が正義として成り立ってしまうのである。

権力者が勝手なことをしていても、自分は安全であるなら良いと考える人もいるであろう。しかし、現代の抱えるさまざまな問題を見れば、それすら上手くいかなくなってきたのである。

財政赤字、年金破綻、少子高齢化、永久不況、大義なき戦争、テロ、少年犯罪、治安の悪化、環境破壊などなど。

これだけ揃えば全ての人類が例外なく、殺される対象者リストに記載されてしまうのは間違いないであろう。

一刻も早く、これらの課題に全力で取り組まなければならない。人類に残されている時間的猶予はわずかである。

今日まで己の地位を高めることのみに明け暮れた政治家がこの国を支配してきた。それにあきれ果てた国民は、そのような利権政治家を批判して改革を掲げている政治家に期待し、彼らは颯爽と登場してきた。だが利権政治家と改革政治家の対決構図の中身といえば、いずれも枝葉末節の議論の繰り返しであった。

これは、ありとあらゆる既成政党が、欧米資本主義を土台にした経済優先の政治思想から抜け出せないからである。画一化した学校教育によって生み出された政治家は、所詮常識の範囲でしか物事を図ることの出来ない、官僚の操り人形でしかありえない。

今までこうした難問に挑む政治家は少数ながら存在した。しかし既存の概念に代わる明確なビジョンを持たないまま、敗北し、疲れ果て、やがて諦め、現政権に観念するか、或いは取り込まれていった。

今のままの政党だけでは、絞殺が良いか毒殺が良いか直ちに決めよ、さもなくば射殺するぞ、ということを突きつけられている。

欧米の生み出した自然破壊型資本主義によって、地球人類はもはや前途に一寸の光すら見出すことが出来なくなった。

少しでも多く貨幣を獲得し、所有し、貯留し、増殖させることが幸福を得ることであると信じ、それによって全ての問題を解決できるという盲信に基づいている。

それでは社会主義のほうが良いのか、という話になるが民間で資本を奪い合おうと、政府に資本を集中させようと、資本の虜になっていることに変わりはない。国家による搾取と独裁はますますの弊害を来すばかりである。ゆえに社会民主主義や共産主義も例外なく、資本主義経済の一事象に過ぎないのである。

人間は経済によって生きているのではなくて、自然の力によって生かされていることを今一度思い直さなければならない。

自然の摂理に基づく貨幣、自然の摂理に基づく市場、自然の摂理に基づく土地制度を作ることで、暗闇にいる地球人類は光を見出すことができるであろう。

前述したように、そもそも戦争は食糧資源、エネルギー資源の争奪であるから、自国において食糧とエネルギーが無償で供給されていれば、無益な戦争はなくなるはずである。これを実現するには貨幣による食糧・エネルギー獲得から脱却し、自然から直接生命の源を摂取することである。日本には幸い「米」という素晴らしい宝があり、エネルギーについても新技術はすでに開発されている。しかし、支配権力維持のために日の目を見ることが出来なくなっているだけである。

いずれにしても、この改革を成し遂げるには、まず現行の経済制度を破棄することから始めなければならない。今日まで有難く信仰されてきた近代経済学、マルクス経済学には重大な欠陥があり、それを覆すのが我が平和党が提唱する『自然主義経済』である。即ち減価する貨幣『自然通貨』という仕組みを利用して、人類の共生を成し遂げることができるのである。

自然主義経済を達成することにより、国家と官僚による支配、資本と貨幣による呪縛から解放されるであろう。今まさにわが平和党に全人類の生き残りを賭けた、歴史的大変革を起こす使命が与えられた。

さて今日まで、現政権を批判するだけで、政府与党の悪事を告発することに生き甲斐を持つ極めて低次元な政党は多数存在した。いや、現政権と戦った政党或いは反政府的運動家はこれに終始したといっても過言ではない。彼らは代替案としての政策を形式的に打ち出してはいたが、確かな解答になりえず、現政権と基本的世界観が同じであったため、決定的な改革に至らず、政府与党にただお灸を据えるためだけにとどまったのである。

ここにわが平和党は、既存のいわゆる常識から脱却し、全ての政策問題に画期的な具体案を用意し、民主的方法によって向う十年以内に政権を獲得することを目指す。このことは日本に革命を起こすばかりでなく、全地球上に革命を起こし、地上天国の建設を図ることに、必ずや繋がるであろう。よく、明治維新以来、終戦以来の改革が、迫られていると何度も口にはされてきたが、これだけの価値観の転換を提示した政党が未だかつてあったであろうか。

国際社会では、今までどれだけ西洋的であるかが進歩の尺度となってきたが、それとは正反対に明治維新前の江戸時代日本、革命前の清時代中国、独立前のインド、殖民支配以前の東南アジアには、東洋独自の思想、即ち物質だけに囚われない自然と融合する地域共生社会があった。今こそわれらの本質である東洋思想を呼び戻し、食べ物をフォークで突き刺し、ナイフで切り裂く事に象徴される西洋思想とは一線を画すべきであろうと思われる。

わが平和党は、現代文明を残しながら、東洋思想を尊び経済のみに支配されない生命最優先の国づくり、真の世界平和を達成するため、不断の決意をもって立ち上がる。

そう、この愛する国がダメにならないうちに・・・

 

平和党総裁

島津真尚

 

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